オランゲーナのくさくさブログ2

アニメの話や声優さんの話をする予定です!

ラブライブにおける「結果」について

 アニメ1期から劇場版へと続いたμ’sの物語は、困難を乗り越えつつも成功していく物語だ。彼女たちはいつも、最後には問題に対する解決策を見つけ、笑顔でエンディングを迎える。しかし、そんなラブライブμ’sの成功に対する「結果」と「過程」に文句を挟む人も少なくない。「A-RISEとの対決が少ないからダメだ」、「他のチームのダンスが描かれないからダメだ」と。そんな中僕は声を大にして言いたい、「ナメとんのか、そうじゃないだろ」と。テキトーにほざいてる奴らの顔面に拳(いかり)を入れるような気持ち半分でこのブログを書くよ。

・やるべきことをやった後には、おのずと結果がついてくる  僕は基本的にラブライブにおける「成功」や「結果」はこのスタンスで導かれているものだと思っている。自分たちが一生懸命やるべきことをやる。その結果、9人の気持ちが揃えば、最高のライブができるのだ。まあ、ここが「因果関係がおかしい」と疑問を持たれがちなポイントなのかもしれないが、僕は全くそうは思わない。何故、このおのずと結果がついてくる仕組みが僕にとってしっくりくるのか考えてみたところ、それはμ’sのメンバーである園田海未さんも嗜んでいる弓道から来るものなのではないかと思えてきたのだ。

 ここからは申し訳ないが多少自分語りに入る。僕も園田海未さんと同じく弓道を嗜んでおり(今はもう全然やっていないが)、学生時代はそれなりに熱を入れて取り組んでいた。自分なりに弓道に取り組んできて、その競技性にも色々思うところがあり、弓道が他のスポーツ等と一番異なるところは射手にとって究極的に自分と的との世界になることなのではないかと考えたのだ。弓道でも、試合を行う際相手と対戦することになるが、それでも、相手と直接ぶつかりあったりするわけではなく、基本的には自分と的との一対一だ。 弓道を経験したことがある者にとっては月並みではあるが、「正射必中」と言う言葉がある。正しい射をすればおのずと的中に結びつく、という意味だ(逆に必中正射という考え方もあり、どちらが正しいというものでもない)。目先の的中に囚われ過ぎて、射のバランスを崩してしまいスランプに陥る。弓道ではよくある話だ。的や先のことを意識しすぎずに、目の前の一射一射で普段から練習でやってきた射をこなすことに集中する。的中を意識しないことが、逆に的中へのポイントなのだ。相手をどう倒すかではなく、自分がやるべきことをやる。その結果として的中、試合の勝利もついてくる。  このように、「結果のことを意識せずに、この一射で自分がやるべきことをやる」こととラブライブでの「9人の気持ちが揃って、思いきり歌って踊る」ことは似ているように思える。例えば2期6話ではA-RISEに勝つインパクトを意識しすぎるあまり迷走してしまっていた。これは、的を意識しすぎるあまり射を乱す姿に似ている。そして、2期12話でのライブ。その最中、彼女たちの頭に「優勝すること」はなく、「ただこの限られた今を精一杯楽しむ」思いで満たされていたはずだ。

μ’sが最高のライブをしている瞬間の彼女たちの目の中には「倒すべき敵」などいないのだ。

・弓と禅  オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』に彼の師匠である阿波研造の次のようなエピソードがある。  阿波研造の「狙わずに中てる」という教えに納得できなかったヘリゲルを、阿波研造は自宅の道場に招いた。ヘリゲルが道場を訪れると、そこは明かりを消してあり暗闇であった。阿波研造は、暗闇の中で二本の矢を順に放つ。放たれた矢は、一本目は的の真ん中に命中。二本目は一本目の矢筈に中たり、その矢を引き裂いていたのだ。

 阿波研造の言葉であるかは失念したが「的と私が一体になる」という言い方がなされることがある。心を無にして集中すると的と射手が一体化して話す前に中る状態になる……のかもしれない。とにかく、僕は「心を無にする」ことは「夢中になる」事だと解釈した。今この瞬間を精一杯輝こうとすることは、目的に囚われない「心が無」な状態なのではないだろうか。

 また、阿波研造の言葉に「一射絶命」というものもある。この一本の矢を射ることが一生で一度しかないこととして、すべてをこの一矢にかける、という意味だ。僕はこの言葉が「今が最高」と重なっているように思えてならない。

 μ’sの9人にとって「ラブライブに優勝する」ことは確かに目的であった。だが、それだけに執心してしまわずに、「今この瞬間を楽しむこと」を意識した結果、おのずと後から廃校阻止、ラブライブ優勝、ラブライブドーム大会開催を実現することができたのだ。それはある意味での「無の境地」のような禅に近い領域だったのではないだろうか。