オランゲーナのくさくさブログ2

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『ターンエーの癒し』を読んでの雑記 その1

 ここ数年のアニメ視聴から自然と導かれるようにターンAガンダムを見始めたのが5月21日、そこから約3か月の時間をかけ8月13日に第50話「黄金の秋」を見終わりました。とんでもないくらい面白いアニメーションだったんですが、面白い以上に「今の自分に必要だった」物語だという感覚がありました。そして、「もっと知りたいな富野由悠季のこと」と思い、Twitter富野由悠季botを見ているだけでは仕方がないので、『ターンエーの癒し』を読んでみることにしたのです。

◇Section1 ∀の前

#月の繭  省略。

#ストーリー起案まで  『∀』という名が決まる前のアイデアの話なので全体的にとっ散らかった印象はあるが、ひたすらに最近の「ガンダム的なもの」とは違ったものにしたいという意志がありありと見えて面白い。と言いつつも富野自身もガンダム的なものに囚われていることを自覚しているあたりが富野由悠季らしさだなと思った(?)。  あるライターが「性を操作できる(自由に変えられる)設定」を持ち込んできた時に、「(一人の人間に)オスとメスが同居している怪しさが人間であり、それが面白いんだろう」とブチ切れていたのにはめちゃくちゃ「それな」となった。  最後に、8話のローラの牛と20話のアニスパワーが富野自身は出来が悪いと感じたのに評判が良かったと言われていて笑ってしまった(僕も好きな回なので)。

#病気のはじまり  Vガンダム後期頃からの鬱の話なので、まあ辛いです。  僕はまだVガンダムは未視聴なのですが、  “なによりも最終回の作品コンセプトが、現実に対するぼくの恨みつらみを込めたものになって、作品として終らせるというものにはなっていなかった。”  という部分に見る前からビビッてしまう。

#死を考えることは生を考えること  「葬式は、あとにのこされた者たちの心の平穏のために行われる(意訳)」という部分には「そうだよなあ」と思った。

#ガンダムという呪縛  (サンライズ)第一スタジオ全体に新作のガンダムを作ることに対する拒否感があったという話に笑った。といっても、「ガンダム20周年記念として赤字を出さないよう作るようなものに、作品としての理念などあったものではないだろう」というような雰囲気での拒否感らしいので、「クリエイターというのはそういう考え方をするものなのか」と妙な関心をした。  途中、暗にプラモファンを叩いているような箇所があって、ビルドファイターズのことを考えながらニヤニヤしてしまった。  そんな中、  “ぼくは、『∀』の志は、オタクになってしまっているような若者たちに一番必要な物語だという確信だけはゆるがなかった”  “ぼくだってキエルさんのスカートのなかをみたいとおもっているんだもの、というメッセージを伝えたかった。”  といった文を読んで「聞きたかった言葉を聞けた」ような感情を覚えたのだった。

#体調不全  体調不良の際に感じる不安から、富野の幼少期、父親の話へとつながっていく。小学校の頃、紙芝居の作画をしてくるという夏休みの課題で、大半を終わらせていたのに出来が気にくわず提出せず、夏休みが明け同級生の作品を見て皆クオリティの低い作品を提出していることに愕然とした、というエピソードからは、凄さというよりも「小さいころから面倒な人間だったんだな」という思いを個人的には強く感じた。  また、体系的に物事を学んでいないことへのコンプレックスはあるんだろうなというのを言葉の端々から感じる。

#∀は変化球ではない  ここまで読んできて分かったけど、あまりタイトルと内容が一致してはいない。  全体的に映画の話をしているが、富野が好きな映画を上げた際に「それらの作品の監督の(全ての)作品が好きということはまったくなく、これらの映画が好きなのだ」と書いているのが、同意できるなと思える部分だった(自分にとってはアニメなのだけれど)。

#正攻法が異端の道  前章の映画の話から関連して、人々の(「オタクの」というニュアンスか?)思考(嗜好)が硬直化しているから同じようなステレオタイプの作品が氾濫し、変なものが普通となる。それを止めるのが規範や倫理観であり、そういったものがあれば本来思考は拡大するという話。その普通のいびつさに対して、『∀』は正攻法をやりたいという流れである。その正攻法を表現するために、富野は「芸能・祭り」と言ったものを意識していたそう。  そのニュアンスについて、僕は上手いこと富野の意図するところを掴みとれないけれども、ターンエーガンダムには結構エンタメとしての面白さでサクサク見進められる部分もあったので、芸能という意識が作用しているのかもしれないし、いないのかもしれない。

#精神という巨大で愚昧なもの  「死を考えることは生を考えること」と重なる儀式の話から政治の話へ。  鬼畜米英という戦時下のスローガンについて「昭和軍隊の装備は、西洋の文物の集大成であったのだから、米英が鬼畜であるわけがない(のでこのスローガンは空っぽである)」という部分には「そりゃそうだ」と笑った。

#鬱病とは内側にむかう力  ここもまた鬱の頃の話で辛いのだけれど、サンライズへの復讐の仕方が妙に具体的で笑った。まあそんな復習も身体が元気じゃないと実行に移せないよね、という着地。

続く…… アフィリエイトじゃないよ